松阪牛歴史

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松阪牛の歴史

<松阪牛の始まりは明治時代です>

松阪地方は伊勢平野の中央に位置する農耕の盛んな地域でしたので、牛は農機具を引く役割を担うため「役牛(やくうし)」として
農家の人々に家族の一員として大切に飼われていました。
中でも但馬地方(兵庫県)生まれの雌牛は大人しくてよく働くことで人気でした。

明治時代に入り、来日した外国人による牛肉の需要が始まり、国民にも普及するようになると、
農耕に使われていた牛の一部が肉牛として消費されるようになりました。
このとき、役牛として3〜4年働いた牛を引退させ、1年ほど肥育し、肉牛として供給したのです。

長期間に渡り、大切に育てられた牛は、他の牛には真似のできない独特の旨味を持ちたちまち評判となりました。

<松阪牛、全国へ>

一方、需要が増えると予測した先覚者山路徳三郎が、東京での販路を拡大しようと松阪近隣から集めた牛を徒歩で東京に運ぶことを計画しました。
売り物の牛が痩せないよう、大切に運べるよう年月をかけて環境整備などを整え、長い行列の旅が始まりました。
この珍しい光景は「牛追い道中」と呼ばれ、松阪地方の肉牛が全国に広まることになりました。

「牛追い道中」は、汽車も自動車もない明治5年から始まり、明治10年以降にはほとんど隔月に行われ、二十数年にも及びました。
鉄道の発達により、明治30年代には終止符を打たれましたが、その後も鹿鳴館や高級料理店などからの依頼を受け、貨車で送り続けていたのです。
このことから、松阪地方の肉牛の優秀性が当時から認められていたと言えます。